朝陽の雫とともに

なぜだか気分がいいので更新頻度が上がります

 

冬の早朝。深夜の真っ暗闇から少しずつ空が明るみ始めて、眩しいまでの鮮やかな空色が天に広がる時間が始まる頃、私は帰宅して諸々の一日を終えるのだが、そんな時間に世の人々は「おはよう」をするわけで。

この世は朝の住人と夜の住人が両方居る事を実感させられる

 

私は完全に夜の住人だ

 

朝の住人達が夜になって電池が切れる頃、私達はそんな人達を酒で癒す仕事をしている。勿論個人的には色恋沙汰なしの普通のバーとしてやっているし、職業も一応バーテンダーとしてやっているので水物を扱うという意味では水商売だが、まあ「お水」に近い方なのかもしれない

 

人と人との繋がりに楽しみを見出す仕事をしていながら、それでもやはり仕事は仕事なのでいつかは疲れも生じる。

「人」に疲れた夜の住人の一人はどうするのかと言えば、「人」以外のものに癒してもらうのだ。

 

自然の持つ力というのは素晴らしい。特に私にとってはその魅力はとてつもなく

 

 

一瞬の風景の切り取り。私のその瞬間のキリトリ

 

 

鮮やかな色、空気、透明な空気、陽。風の香り、蘇る記憶––––––。

 

その頃の自分が視ていたもの、視えていたもの

 

硝子を隔てられているようだった

硝子の向こうには、私が視たい世界があるようで、その時間もあるようで、でもそこへは決して辿り着けなくて

 

それは、愛しい愛しい「過去」の世界で、ノスタルジーを代表するような何かだった。

自分がもう二度と、どんなに羨望しても、どんなに渇望しても行くことのできない世界で、でもその頃と全く同じような懐かしい匂いが、今の私を呼ぶのであった。

 

その呼ぶ頻度と呼ばれる世界は最近やたらと頻度を増していき、そしてその場所はより過去へと遡っていく。

今の私との距離をより遠く感じさせるように、ずっと遠くからひたすら今の私を過去に呼ぶのだ。

 

最近、黒猫がよく横切るのを見かける。まだ死なない事を切に祈る

ノスタルジーを形に

何となく、最近の話。またもや感性の話になってしまうのだけれど

 

元旦のあの美しい空を見てからというもの、幸いにも今日まで瑞々しいあの感覚、透明で少し冷たいあの感覚が続いている

そこに何だか懐かしさも含まれており、最近妙にノスタルジーを感じることが多くなった。空の朱と青の美しさは冬になると美しさが増すわけだけれど、気付けばもう元旦から十数日も経っていて、あっという間に一月も半ばになってしまった。

時が経つのはとても早い。そして今、こうして文章を書いているこの感覚がとてつもなく愛おしく感じるのは、何故なのだろう

書く、という行為がこれほどまでに楽しかっただろうか。否、昔に還りつつあるのだろう

 

最近、風の匂いと共に、頭の中にとてつもなく懐かしい映像が勝手に流れ込んでくる。昭和レトロ、なんて言葉が一時期流行った時代があった。多分、インスタ映えだのツイッターだのであっという間に食い荒らされ、まだ在りはするが廃れてしまったようにも思える

 

平成ももうすぐ終わるのだ。平成もいつかは昭和のような扱いになる

 

そして大正ロマンは昭和ロマンになるのか?

 

話を戻すと、その懐かしい映像というのは、存在するかどうかも分からない場所であったり、かつて私が幼少期の頃に住んでいた景色でもあったりする。そしてかつてこの感性が最も鋭かった頃に、私が目的もなく、ただただ感覚だけを信じて歩いた地でもあったりする。

 

大抵、そんな時の思い出は自分の髪が濡れている。

 

お風呂上がり、濡れた髪をタオルでわしわしと拭く。でも私は今までほとんどドライヤーを使ってはこなかった。なぜなら、濡れた髪で外に出た時の、あの全身に感じる空気と匂いに全てを浸せるような気がしていたから

 

移ろいゆく季節の変わり目の風の匂い、空気の冷たさ、はたまた生温さか。そこには必ず夕陽もあって、一日さえも移ろってゆく。外に出る限り、移ろいゆく美しさには必ず触れることができる。最近は、その行為も疎かになりつつあるけれど……

 

陽が沈む、あの少しの、たった少しの時間にしか現れないあの空の彩は、どうしてあんなにも美しいのだろう

 

窓際から香る、まだ少し先の春の匂いとか、春のあの夜の匂いであるとか

真っ白な夜桜が、空気までも仄かに白く燈らせるような

 

全て、懐かしくなるものが好き

 

夏なら、濡れたままの髪を揺らして、制服で自転車を転がしながら、駅前の何とも不味いペットボトル飲料水を飲んだこととか、

 

気だるい、生温い空気で、汗が垂れるのを感じながら、暗い森の横を歩く

別の学校の校舎の灯を見つけて、別の世界を想像して現実逃避をしていたあの頃とか

 

どこまでも水に浸っていたような私の過去達は、どれもこれも透明と水のような何かと、それから人間臭さにまみれていて、どこか現実ではないような異空間のような時間も過ごしていたように思える

 

仕事を始めてからはそんな感性は死んでしまったと思っていたけれど、最近それがまた少しずつ顔を出し始めている

 

別に今の生活に不満なんてない、はずだけど

 

何かから逃げたくなっているのかもしれない

もしくは一人になりたくなっているのかもしれない

 

江古田に行きたいと思う

 

 

 

2019 あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。

2019年も宜しく御願い致します。

 

 

あっという間に終わった2018年でした。

皆様は如何だったでしょうか

 

年内ならまだしも、もう新たな年を迎えてからの昨年の振り返りをするのはあまり好きではないので、元旦からのことでもお話をしようかと。

もう三が日が終わる、明日から仕事です

 

今年は元旦からきちんと初詣に行けました。

 

夫と柴又の帝釈天に参り、おみくじを引いてきた

私は吉、彼は凶を引いた。三年程期間が空いたとはいえ、二回連続の凶らしい、謎にテンション上がりながらがっつり落ち込んでた 笑

 

久々に、あんな空を見たかも。

 

流石お正月、といった澄んだ空気だった。刺すような冷たい風がたまに吹いたけど、それでも何だか透明感があって、元々帝釈天がある近くの街並みは下町情緒溢れるノスタルジーが売りのような雰囲気だけど、それでもお正月独特の空気ってあるじゃない、あ、正月なんだなーって感じる、あの空気。

 

雲一つない快晴で、私達が出掛けた時はもう夕陽が沈みかけていたけど、その空の色の美しさは、ただただ色彩に対する純粋な感動を突きつけてきた。風の匂い、澄んだ空気の透明感、彩の在り方……

 

全てが完成していて、私は久々に空間に恋ができたような気がした

 

ある昔ながらのお店で、私は甘酒を、夫はワンカップを買って二人で飲みながら歩いた。とてつもなく平和で、粋な正月に感じられた。元旦に初詣に行くというイベントの最中に歩きながら外で飲む酒の美味さといったらない。二人とも酒好きの飲んべえだ。

 

どんどん陽が落ちていく。朱の空が、深い青に侵食されていく。空気の冷たさがその空に硝子を貼らせたような、色の鮮やかさを強調させる。色彩の美しさが、自然と調和する瞬間、

 

昔を視ているようだった

 

私が何ものにも替え難い、強烈なときめきを感じる瞬間は、いつだって何気ない自然の模様の変化だ。空の色、空気の匂い、風の匂い、ふと目をやったその空間の切り取り、ただ、そこにある風景。突き刺さる、どうしようもない焦がれように、頭から砕かれるような痺れに震え、その空気を胸いっぱいに吸い込む。その瞬間、その「空間」と同調したように思える。重なった、そしてその一部に溶け込んだ、自分が透明になっていく。指先から透けていく、透けていってほしい、私はその焦がれた空間そのものになりたくなる

 

人を想う以上のときめきを、私は空間に寄せる。人が好き、夫が好き、でもそれ以上に自分が対象にしたその空間こそが自分の宝になる、血になる、肉になる……

 

内臓までも透けていってしまうような

 

そんな透明な空を、久々に視た。あの青さと、朱の、ほんのわずかな時間の逢瀬は、私が手を伸ばしてしまうほどだった

 

十代の孤独、研ぎ澄まされた感性、鋭い自分がその空に居たような、そんな幻が垣間見えたようだった

 

まだ濡れた髪が、そこからも伝わる風の潤いが、日本の正月をより鮮やかに、艶やかに、そして情緒的に塗り上げた。

 

その日、帰り道、夫と食事をするために停めた自転車が盗まれた。

 

 

でも多分、何とかなるような気がした、そんな妙な新年の明けだった

 

今年一年も良い年となりますよう、

 

 

 

人が嫌いになったら逃げ場所はあそこに決めた

こんばんは。突然春のような暖かさになって吃驚しました

 

最近仕事であまりにも触れる人の数に辟易して、先輩社員が「もう、もう人間もういい!!人間嫌い!!」と発狂していた事に激しい共感を得て、私ももうしばらく「人」に触れたく無いと思い、休みを使ってたった一人で何かしらの時間を設けた次第です。

 

夫も家に置いて、本当に私一人だけ。で、向かった場所は羽田空港。なぜそこにしたかと言うと、ちょうど十四年ほど前のこの時期、まだ幼かった私を叔母が羽田空港に連れて行ってくれたのを思い出したからだ。もう朧げではあるけれど、確かにキラキラした夜景や飛行機が飛び立つのを眺めて、それはそれは感動したことを覚えている。そしてその時私は幼かったので、そのままその飛行機に乗れるものだと思っていたのだけど、叔母に聞けばそれは叶わないと言う。いつか大人になったら私もあの大きな飛行機に乗って何処か遠くに行くのだとぼんやり思っていた気がする。

 

そんなことをふと思い出して、たった一人、電車に揺られて羽田空港に向かった。あの頃とてつもなく遠くに感じたその場所は、呆気なく電車で辿り着き、私は淡々と思い出の場所へと向かう事が出来た。

 

記憶が曖昧だった分、色々思い違いをしていた部分もあったらしく、でも記憶と違うその場所が醸し出す雰囲気や施設設備などは想像以上で逆に感動した。お土産広場やレストラン街を抜けて、最上階の展望台を目指して歩いた。至る所にあるエスカレーターの数や流石と言った所だ。クリスマスシーズンでもあるからか、イルミネーションなどの装飾がとても綺麗だった。オブジェなども美しいものが沢山あった。皆大きいスーツケースを持っていたり、ある程度予想はしていたけどそれ以上に外国人が多かったり、サラリーマンなどがあんな時間(着いた時はもう20時だった)から出張のような出で立ちでしきりに腕時計をチラ見していたり、皆思い思いのように過ごしているようだった。特に並んだ椅子に横になってしまってる人も目立った。

 

私が一番記憶に残っているのは展望台だったので、記憶通りかどうか気になったが、いざ登場してみたら全く覚えていなかった。あれ、こんな感じだったっけ。ああ言われてみればこんな感じだったような気もする。そんな感じ。

 

離陸・着陸の様子が見れるそこからの夜景は素晴らしいものだった。

受けた衝撃は幼い頃に受けたものよりは軽くて、こんなところでも大人になってしまった嫌な感じが襲ってきたけれど、ちょうど雨が激しく降ってきて、機体が雨に濡れてまるでシャワーを浴びているように見えたり、雨夜の中眩しすぎる明かりが点々と灯っている光景はなかなかに趣があるもので、ある意味悪天候でよかったかもしれないと思うほどだった。まるで映画のワンシーンのようだった。遠くに見える灯り達は皆温かそうで、何だかそこだけ別世界のようだった。国が違うとかではなく、文字通り別世界。次元が違うのでは無いかと本気で思う。そんな夢みたいな事ばかりを考えて私は生きている、

 

遠くに見える光というのは、どうしてあんなにも別の世界のように見えるのだろう。まるで私とは無関係のような、本当に遠くの土地のように思える。昔から遠く、距離があまりにも遠い果てに見える灯りというものに惹かれていた。なぜならそこなら私のことを誰も何も知らないから。私のことなんかを知らない、関与しない場所やそこに住む者達が、私が居ない世界のまま在り続けてくれることをずっと祈っている。昔からそうだ、私は私を誰も知らない世界のことを夢見て、その場所や人達をずっと神様みたいに遠くから眺めるだけの生活に憧れていた。承認欲求は馬鹿みたいに強いクセに、多分本当の本当は放っておいて欲しかったんだと思う。それはこんな人間に生まれてしまったからだ。最初から誰も私のことを知らなかったら、私はずっと知られたくなんかなかった。放っておいて欲しかった。知らないで欲しかった。触らないで欲しかったし、私は自分の物語の中だけで生きていきたかったのに

 

夢でもたまに見る。そんな別世界の灯り達。過去の人間。私が触れようとするといなくなってしまう

 

風が強く吹くと、星みたいに遠くの灯り達は瞬いて見えた。硝子で出来た星屑達なのだと思った。宝石みたいだなとも思った。私の好きな青や緑の星屑達も輝いていて、見とれていた。結局展望台で二時間程度夜景をただただ眺め続けていた。雨風に横殴りにされながら、立ちっぱなしで眺めていた。不審そうな目をして、沢山の人達が私をジロジロと見て過ぎ去っていった。

 

さて、空港まで来たのだから何かしら屋内のものを賞味したい、ということで展望台に隣接されているカフェにお世話になった。オリジナルの和紅茶とガトーショコラは美味しかった。今度は手書きノートとペンを持って、少しお邪魔したいと思う

 

カフェに入ってからも私は窓から夜景を眺め続けていた。それから、曲を聴いて帰りの電車に乗った。死んだと思っていた感性は少しだけ息を吹き返していた。でもそれには手書きのノートが必要だった。用意しておくべきだった。

 

曲を聴きながら車窓から色々なものを眺めていた。くもり硝子の窓のマンション、安っぽいネオンのラブホテル、もう古いデパート、高層ビル、スカイツリーはまだ起きている。仲良さそうに帰るカップル、まだ火曜日なのに酔い潰れて倒れているサラリーマン、それから電気の切れかけている自販機。馬鹿みたいに、本当にバカみたいに。いや、馬鹿なのだ。今日も馬鹿みたいに沢山の人間が生きている。それを横目で眺めて家路に急ぐ私も、結局は烏合の衆の一人で。昔はそんなこと認められなかったな、とここでも自分の心がまた一つ老いて死んでいく実感を得る。血反吐が出そう

 

人間のことが嫌いな人間ほど接客が上手い不思議。

 

 

先輩社員も人が嫌いだ、人が嫌いだとよく嘆く。でも彼はその割にはいろんな人から好かれていて、私からしたらずるいと思う。昔から自分を削ってでも人助けをしたって、好かれるよりも嫌われることの方がはるかに多かった人生だ。そんなこと言ったら私の方がよっぽど人間が大嫌いだ。それでも塗れて生きていかなきゃいけないから触れ合っていただけで、そんなことを続けていたら気付けば人間に囲われて生きる羽目になった。馬鹿野郎だ……

 

DAOKOの「未だ夢を見ている」が沁みる。痛いほどに

 

もう少し物書きの方に集中したいと思います。

せっかく息を吹き返したのだから、丁寧に育てなくては

 

 

夜風に夜景に宵闇が好きだけど、そろそろ日光も浴びたいです。kagariでした

澄んだ朝

秋も深まり冬の気配がする。もうすぐそこまで来ている、何ならもう顔を覗かせている。

深夜から朝方がもうだいぶ鋭い寒さになってきた。

最近はDAOKOを聴いている

 

夜には「同じ夜」を、朝には大抵「終わらない世界で」か「水星」を聴いている。

秋から冬にかけてのDAOKOはサイコーで、よく空気の匂いと合っている。

視界に入り込んでくるイルミネーション、そんな綺麗さよりも古ぼけた安っぽいネオンの方がどことなく愛着が湧くのはきっと私がそういった世界ばかりを見てきたからなのか。

仕事柄、夜から朝にかけて働くことが多く、深夜ちょっと外に煙草を買いに行こうと外に出ると大抵往来だというのに酔っ払った男女が抱き合いながらキスをしている。しかも中年だったりするから一体誰得なんだろう、と毒吐きつつも、側から見たら見苦しい物でもきっと本人達は幸せなのだろうと思う。

動物的な男女の在り方としてはこちらが正しいのかもしれない。私はああいう風にはなりたくないけれど。

 

バーテンダーなんてものをやってると、まあ出会うのは昼の社会にくたびれた人達を相手にすることが多いわけで。

疲れ切った顔の人達、しかし今はもうすぐクリスマス。恋人とのイベント話に頬を赤らめて話す男女達も集う。そんな中、大体カウンターに座るのは一人で来る常連客だったりする。私よりも三、四つほど上のお姉さんは、この間お気に入りの男性バーテンダーに相手にされず拗ねて帰られてしまった。

 

色々ある。

 

仕事自体はすごく楽しいけれど、やっぱり大変は大変で、でも現場に着いてしまえば何とかやり過ごせるもので。

 

しかし仕事中でも最近は色々なことを考えてしまう。

 

物書きがしたい、と。ふと考えてしまうのだ。

 

もっと懐かしい、胸が少しだけ苦しくなってしまうような場所で心奪われていたい。そこで哀愁に刺されて、匂いにも突き殺されて、どうしようもなく泣きそうになっていたい。そこまでぐちゃぐちゃに感じるものがあって、ようやく私はものを書くことができる。

 

モラトリアム溢れる浮遊感、そして一瞬のノスタルジーに全てを包まれて、自分の記憶にさえないようなものを自分の中に創り出してしまう。

実はそれは、ふとした瞬間どこにでもあったりするもので、それを見つける才能が私にあるのだと思う。それを上手く文に起こせるかどうかは、また別の話だけど。

 

澄んだ朝、私達の家は川の近くにあるから、土手道を自転車で駆け抜けるとすぐに磯の匂いがする。その川はすぐ海に繋がっている。

 

陽が昇るのを、眺めながら音楽を聴く。

澄んだ空気に身を委ね、仕事の疲れを一掃されるようで、気持ちいい。

大抵私の一日はこうして終わる。皆が新たな一日を始めようとする頃、私や夫の一日は終わる。

 

いつまでもこの透明な風がずっと私の宝でありますようにと、日々願う。

 

 

檸檬水

例えば、檸檬水を凍らせたもの。

例えば、青く半透明な石鹸の中に閉じ込めたもの。

例えば、バイオレットフィズの入ったカクテルグラスの底。

 

もしくは、全く関係の無い、ただ朱が続く京の町の神社。

 

全て透き通ったものでできている気がして、私はそんなものになりたかった。

 

浮遊している、ただただ揺蕩い、微睡む。

根無し草の昔、私はそんな空間に居たかった。

 

水の中揺らぐような、風に溶けて草木を揺らすような、田畑の苗を揺らすような、誰かの頬を撫でるような、誰かに匂いで気付いて欲しいような

 

鋭い美しさは、見ているものとして心奪われるから。

持てる優しさは、日向のようで

 

麦わら帽子に白いワンピースが似合うような夏の女の子になりたかった

 

風に吹かれて散る桜吹雪の儚さが似合う女の子になりたかった

 

いつの間にかもう「女の子」ではなくなっていた

 

秋も冬もどうしてかいつも待ってはくれなくて、あっという間に未来を見せてくる。

時間の流れがあまりにも早い。

 

顔の系統に合わせるのではなく、和顔の美しい女性でも在りたかった。

何もかもが、無い物ねだりで消えていく、

 

二十四歳は、もう現実の男性に恋などしない。

これからは、自分の創作物に恋をする。

 

私はもう、誰かが居なくても恋を生み出せる。

きっとまだ感性は死んでいない。

 

好きなように、心の中で何かを薫らせる。

水彩画にも似た、そして柚子の香りでもしそうな

自分の書くものが好きだと、ようやく涙して言えるのだ。

 

文学

 

私小説にもならない、ただただ美しい描写の羅列

 

それらを生み出し触れるだけでいい。

無理して他人を真似ることは無い。

 

例えば、椿が首を手折られるのを待っているかのような──

 

黒と朱が爻わる、その空間に、恋を。

 

 

感性が死んでいく話

転職後の話はしたっけか。

また飲食を、というよりずっと飲食をやっている。

ずっとお酒に携わり、ずっと水に手をさらし、手荒れが続いている

 

いつかこの店で店長になるのかなと思った店は肝心の現店長とウマが合わずあのクソババア、と悪態を吐きながら辞めることになった。

 

代わりに今勤めているバーはとてつもなく対人関係が良好なので、今までの数々の職場の中で一番働きやすい。

周囲が良い人達ばかりなので、仕事が出来ない私でも何とか楽しくやれている。

 

が、感性が死んでいく。人と蜜に関わると、どんどんものが書けなくなっていく。自分の感性が死んで錆び付いているのが分かる。私はもう物書きにはなれないのかもしれない

 

そんな中、夫は着々と夢を叶えるために毎日文を文を連ねている。私はそんな姿を横目で見ながら別のことをする。全く物書きとは別のことを。

 

もう、文章が書けない。かつて物書きを夢に見ていた人間としては、文章だけが武器だった人間としては、死ぬほどそのことが辛いのだ。

 

あの頃の鋭い感性に戻りたい。十代の頃の、冬の霧を進むようなあの冷たさに戻りたい。

毎年冬だけは空気の冷たさや澄んでることからか、あの頃の感性を一時的に取り戻すことができるのだが、今年もできるとは限らない。

私は人間が好きで嫌いだ

 

死にたくなる

 

才能というのは磨かなければ枯れ死んでいくというのはどうやら本当らしい。

元々持ち合わせていたはずなのだ。

私は努力を怠っただけだ

 

書くことをやめて、仕事を楽しみ、楽しみすぎて本来の趣味が、夢が死んだ。

私の武器が錆び付いて朽ち果てた。

 

 

夫はいつか夢を叶えるのだろうか。

 

 

もう一度あの頃のインターネットに触れたい。

 

皆が異様な感性を持ち寄って、尖っていたあの頃に。

刹那の余白に想いを寄せられていたあの頃に

 

 

歳だけ重ねたって、醜いんだよ、お前

 

本棚が届いたら諸々やり直そうと思います。