古傷ではなくただ慣れただけ、そして傷はまた開く

古傷、という言葉が得意ではない。

いきなり何を言い出すのかと思えば、またなんとも成長していないとある二十代現代人の世迷いごとであるので、聞き流していただきたい

 

古傷が痛む、という言葉があるが古傷は癒えていくものであるとは限らない。傷には変わりなく、その痛みに慣れてしまっただけだと思う

苦痛には変わりなく、そしてその傷口はまたぱくっと開くことはままあるのではないだろうか

 

私の場合、痛みにもある程度慣れ、それでもぱくっと開く傷は腐る程あるのだが、特にこの一週間その傷は開きっぱなしだった。

環境が変わり、心情も変わり、気付けば間も無く25になるのだけど、恐らく世の25とは全く異なる世界に生きているのではないかと思う。

私が生活しているのは真っ白なオフィスでも何でもなく、ただくたびれた人間が、寂しい人間達が集う夜の場だ

 

皆何を目標に生きているのか?最近、色々な職場の人間が怖くなる

 

私には何もない気がして

 

なりたいものも、やりたいことも何もない

趣味とやらが楽しくない、どうしたいかも何もない、ただ虚ろな日々を送っているような気がする

 

多分、静かな時間が欲しいのだと思う、こんなに弱ってしまうと、ふと実家の家族を思う時間が増える

 

やはり定期的に田舎の風が恋しくなる

 

つくづく田舎育ちを痛感させられる、東京で暮らしてきた夫は実家の寒さが厳しいのだそうだ

 

私の書くものは、惹き込まれる人はごく少数であるという自覚がある。ゆえに、大きなメディアにこの先載る事が夢だなどと言うつもりは毛頭ない。

 

ただ、私の内側から吐き出したものが刺さってくれる人達だけに、その刃が深く、深く刺さっていて欲しいと願う

まるでカエシがついているかのように、

 

幸いにも、息をするだけで苦しいような不器用さではないので、もっとドロドロを描ける人の方がきっとその反応は相当なものなのだろうと思う

が、中途半端者こそが、最大の生き辛さに値すると私は思っている

 

何者にもなれず、なりきれず、自分よりも上を見ても下を見てもキリがないような、何者でもない自分への漠然とした焦燥感、不安、満たされぬ自己顕示欲、承認欲求、未来への不安、絶望、結局どこにも帰属できぬ宙ぶらりんな自分こそが、最大の恐怖であり苦痛なのだと

 

自己紹介ができぬ存在ほど哀しいものはないのだ

 

誰の記憶にも残らない、否、残っても淡くぼやけて消えてしまいそうなほどの

 

 

人は誰かを強く覚えることなどほとんどしないけれど、それを分かっていても自分が何者であったかを人に覚えていて欲しいと願わずにはいられない

 

自己の存在意義が見つけられないまま、ぼんやりと過ごす25歳が居てもいいのではないかと開き直りつつ、今年の冷春に苛立ちつつ

また夏の夜のじっとりとした暑さに思いを馳せて、私は今日も生きている。