空っぽのポッケ

どうどうとまた時間と日々に流されて、また空白になっている自分が居る

 

何か身になる物事をしなくては、と思う反面何もできない。

無論甘えである。

 

しかし最近、何度も書くように妙に過去の記憶が鮮明に蘇る。春が待ち遠しい、冬の寒さに神経がやられる。しかし感性が最も鋭くなるのもまた、冬のみ、である。

何処かしらに行きたいと思うのだけど、あっという間に辿り着けてしまうような場所ではなくて、もうしばらく行くことのできていない、もしくはできない場所に行きたい。

過去に行ったことのある愛おしい場所達を、感傷を持って一人で感じたいのである。

 

例えば、中学の修学旅行で行った京都、奈良。

あの時あんなにも美しく見えた都は、本当にあの日の思い出のままなのだろうか、

 

それは私が好きだった人をただただ追いかけていた時間が美しく煌めいていただけだったのかも知れない。その証拠に、私が記憶に残っているのはほとんどが小雨の降る最終日で、階段を先に上るあの人の背中だったり、十五歳ながらに必死に願掛けをして、恋の石を試した少女性だけだ。

ちなみにその可愛らしい片想いは切なく終わったのだが、その相手は今だに律儀に毎年年賀状をくれる。ありがたいことだ

 

晴れの日もあったはずなのに、どうしてか私の中での京都、奈良のイメージは雨や夜ばかりだ。多分、その瞬間切り取ったものが、一番美しく見えたもの達だったのだろう。

儚げで、しかし凛と美しく佇むそれらを好きだった人に重ねて、その場所や時間、空間を共にできた喜びが、美しい街を思い出として強く脳に刻まれたのかもしれない。

 

高校の修学旅行で行った沖縄も、ほとんどが海や夜、車窓から見た景色とバスから眺めたゲリラ豪雨で濡れた街並み、それから遠くから不意に香ったかつての想い人の匂い、白い砂浜ばかりが、私の記憶としてキラキラと静かに輝いている。

 

どれも全て余白を愛していた

 

香りを、全身に感じる風を、五感全てで感じ取ったその空気を身に纏ってその場所を愛し、起きたこと、見たもの全てを心に映し、そして脳裏に焼き付けたのだろう

写真らしい写真はほとんど撮らずに、自分の中で写真を焼き、ふとした時に現在の私を掬い上げる。雨はいつも皆何処かへ消えてしまうような、人を居なくさせるから、より私にとってはその背景だけが対象になる

 

雨の音が、空気の匂いが、冷たい雨が、鉛のような味が、透明な、雫達が。できた水たまり、何重の輪が広がり続ける、そして誰も居ない、閉まった暗いスーパー。

 

これも制服を着ていた頃の思い出だ

 

 

少し肌寒くなる、雨の日をあんなにも美しく見れる日はもう来ないのだろうかと思うと、とてつもなく哀しくなる。

 

ここ数日、あまりにも鮮やかにブワッと出てくる突然の過去の映像達。

私は近いうちに、死ぬのだろうか