ノスタルジーを形に

何となく、最近の話。またもや感性の話になってしまうのだけれど

 

元旦のあの美しい空を見てからというもの、幸いにも今日まで瑞々しいあの感覚、透明で少し冷たいあの感覚が続いている

そこに何だか懐かしさも含まれており、最近妙にノスタルジーを感じることが多くなった。空の朱と青の美しさは冬になると美しさが増すわけだけれど、気付けばもう元旦から十数日も経っていて、あっという間に一月も半ばになってしまった。

時が経つのはとても早い。そして今、こうして文章を書いているこの感覚がとてつもなく愛おしく感じるのは、何故なのだろう

書く、という行為がこれほどまでに楽しかっただろうか。否、昔に還りつつあるのだろう

 

最近、風の匂いと共に、頭の中にとてつもなく懐かしい映像が勝手に流れ込んでくる。昭和レトロ、なんて言葉が一時期流行った時代があった。多分、インスタ映えだのツイッターだのであっという間に食い荒らされ、まだ在りはするが廃れてしまったようにも思える

 

平成ももうすぐ終わるのだ。平成もいつかは昭和のような扱いになる

 

そして大正ロマンは昭和ロマンになるのか?

 

話を戻すと、その懐かしい映像というのは、存在するかどうかも分からない場所であったり、かつて私が幼少期の頃に住んでいた景色でもあったりする。そしてかつてこの感性が最も鋭かった頃に、私が目的もなく、ただただ感覚だけを信じて歩いた地でもあったりする。

 

大抵、そんな時の思い出は自分の髪が濡れている。

 

お風呂上がり、濡れた髪をタオルでわしわしと拭く。でも私は今までほとんどドライヤーを使ってはこなかった。なぜなら、濡れた髪で外に出た時の、あの全身に感じる空気と匂いに全てを浸せるような気がしていたから

 

移ろいゆく季節の変わり目の風の匂い、空気の冷たさ、はたまた生温さか。そこには必ず夕陽もあって、一日さえも移ろってゆく。外に出る限り、移ろいゆく美しさには必ず触れることができる。最近は、その行為も疎かになりつつあるけれど……

 

陽が沈む、あの少しの、たった少しの時間にしか現れないあの空の彩は、どうしてあんなにも美しいのだろう

 

窓際から香る、まだ少し先の春の匂いとか、春のあの夜の匂いであるとか

真っ白な夜桜が、空気までも仄かに白く燈らせるような

 

全て、懐かしくなるものが好き

 

夏なら、濡れたままの髪を揺らして、制服で自転車を転がしながら、駅前の何とも不味いペットボトル飲料水を飲んだこととか、

 

気だるい、生温い空気で、汗が垂れるのを感じながら、暗い森の横を歩く

別の学校の校舎の灯を見つけて、別の世界を想像して現実逃避をしていたあの頃とか

 

どこまでも水に浸っていたような私の過去達は、どれもこれも透明と水のような何かと、それから人間臭さにまみれていて、どこか現実ではないような異空間のような時間も過ごしていたように思える

 

仕事を始めてからはそんな感性は死んでしまったと思っていたけれど、最近それがまた少しずつ顔を出し始めている

 

別に今の生活に不満なんてない、はずだけど

 

何かから逃げたくなっているのかもしれない

もしくは一人になりたくなっているのかもしれない

 

江古田に行きたいと思う