残像

薄ぼやけて視える、何か。多分、記憶なんだと思う

 

先述した彼女のブログを読んで、もう一度文章を書こうと思う。少し冷たくなった朝、まだ私達の部屋は微妙に薄暗い。シンとしたような、ほんの少しだけ凛としたような空気の中、私はこれを一人書いている。夫はついに力尽きて眠った。髭が伸びている

 

彼女に憧れて憧れて、何度も読み返しているけど、私は彼女のような生き方は多分、できない。いや、できるのかもしれないけどしたいとは思わない。彼女は美しく賢いから、多分あんな生き方ができて、それがまかり通ったのだと思う。私にはあそこまでの繊細さは、ない。その代わり夜遊びのような生き方をしている。例えるならば、彼女は真冬の早朝、霧が立ち込める森の中に居るような生き方だとすれば、私は真夏の祭りの夜、外れで草原を眺めているような生き方だ。彼女が完全な静寂と淡さの美であるならば、私はただ喧騒に添いたい願望を持ちながら、夜の草原が奏でる静かな音色に耳をすます生き物だ。夜が私の本領発揮ではあるけれど、それはある程度居心地の良い深くて広い闇でなくては息ができないのだ。彼女は多分、その美しさを持って都会の宝石にも上手く溶け込めるだろう。私にはそれができない。

 

風と水のような違いじゃないかと思う。彼女は風で、私は水。

 

彼女は樹のようでもあったし、深い緑の葉を身につけているようでもあった。対して私はそのような落ち着きはなく、力強く撒けば多少痛みさえ感じる液体であったし、夏の夜でもそんなに冷たくならない生ぬるい透明な液体であったと思う。

 

彼女の文章を深夜に読むと、心をどこまでも抉られる。そして、忘れていた色々なことを鮮明に思い出す。自分が何をしたいのかも、どんな風に生きたかったのかも。そしてまだ私はそれを諦める必要はなくて、兎にも角にも歩かねばならぬと思う。

 

いっぱい迷ってきたんだな。彼女のブログをずっと読んでる。とにかく彼女のブログをずっとずっと読んでる。苦悩して、苦しんで、もがいて。それは私もやってきたはずだった。

 

けど、私は悩む時間が少なかった。ちょっと一人でふらっと海でも眺めれば、すっと答えが出て、あっという間に実行するタイプだったから、ほとんど誰にも頼らず一人で何でも決めてきた。

 

でも最近は、夫に甘えてばかりいる。だんだんと思考することもなくなってきて、本当にダメな奴になりかけてる。けど、彼女のブログを読んだ。読んだのだ。何かが、今まで数年は死んでいた私の何かが、息を吹き返してくれた。

 

冬の冷たさも、今はもう愛せると思う。あの頃みたいに苦しくて痛い冬じゃない。

 

眠れば、隣に夫が、温かい夫が腕枕をして、さらにはぎゅっと胸元で抱きしめながら眠ってくれるんです。もうあの頃みたいに、指の先が触れ合うだけでも嬉しくて、そして胸が痛いほど切なる夜はない。束の間、ほんの二時間抱きしめて寝てくれても、また次の日には私以外の女を抱く事実に吐き気を我慢しながら眠りに落ちたあの日はもう、二度と来ない

 

あの男達は、今、どこで何をしているのだろうか。

 

かく言う夫も、昔は相当遊び人だったらしく、過去を聞けば聞くほど悔しくなる。そしてそれは彼も同じらしく、私も過去を話すと我ながらなかなかにエグい。9歳も上の私の夫。恋人だった人。ついに法律的にも結ばれたわけだけど、正直今だ実感はない。あと六日で結婚して一ヶ月経つのだ。やばい、まだ色々名義変更してない……

 

9歳も歳が上の夫の寝顔は、おっさんだな、とふっと笑ってしまうのだけど、それでも愛おしい私の旦那であることには変わりはなくて。でも、こんな顔していびきをぐーすかかいている人が、一年前は黒服を着た私の上司で、職場では司令塔をやってるなんて、人って面白いなと思う

 

上司だった。私の愛しい上司。尊敬する、マルチタスクを得意とする異常に頭の回転が早いソムリエ。彼の頭の中で、あの予約表と空席の把握、これから来る客の席配置などがパズルのように組み立てられていく。どちらかというとルービックキューブに近いのだろうか。それらがあっという間に組み立てられていく。同時にバーテンダー業務もこなし、インカムで部下に指示を出す。洗い場に立てば誰よりも速く、グラス拭きも恐ろしい早さでこなす。無論、作業だけでなく部下の育成や接客スキルも上層部から高い評価を得ている。実際、顧客満足度アンケートなどで彼は何度も名前を書かれている

 

しかし、口は悪く普通に怒鳴り散らすこともある。多分口で人を殺せるってくらいに口が悪い。私も何度も怒鳴られた。

 

それでも、いつもちゃんとフォローを入れてくれるのは彼だけであった。本当に私がダメになってしまいそうな時、いつも支えてくれたのは彼だった。飲み会の日、インターン先でお世話になった先輩が来ないからちょっと見てくると外に出て、ひたすら待ちぼうけをしていた私に唯一電話をしてくれたのは彼だった。

 

なぜだろうか、何となく私は入社して配属されたその時から、誰に言われずとも彼に懐くのが一番いい、ということを感じていた。勘のようなものだ。嗅ぎ分けた、と言ってもいい。それから、あの時から、何となく彼が私を守ってくれるような、助けてくれるような、そんな感じがした。だから、どんなに口汚く怒鳴られようと、何となくあまり怖く感じなかったし、何となく、何を言われても何となく、本当に何となく好きだった。口は悪いけど実は優しいお父さん的存在、みたいに思ってた

 

初めて抱かれた時、抱きしめてくれた時の体温をよく覚えている

 

眠くなるような腕の中で、太い杭で体を貫かれているような衝撃を受けて、でもいつかこの人ともっと仲良くなれればいいなあと思っていた。もっと知りたかったし、助けてほしかった。多分、私のことをこの人はどんな部分でも受け入れてくれるんじゃないかと思った。だから、私も受け入れてみたかった。

 

溶け込める人が欲しかった。どこまでも依存させてくれて、私の病気のことも、私のあまり人に見せない部分も、こんなポンコツでしかない人間がどうやって生き延びてきたのかも、私の持っているもの全てを賭けて、彼のことを手に入れたくなったのだ。

 

初めて家に行った時は、部屋が橙の暗い照明のおかげで妙に薄暗かった。ベッドが柔らかくて、よく揺れた。私はよく、揺らされた。それは今もそうだけど、今はもっと部屋が明るくなった。私が暗いと言って、照明を変えたから。

 

彼はよく付き合う前から頭を撫でてくれた。手を繋いだ時も、温かい彼の手が好きだった。

 

彼の話を聞いた時、私は一人でスマホを耳に当てながら涙を流した。余計に、私が傍に居なくちゃいけないと思った。彼がネットでの恋愛に破れた時、私は実家から始発で彼の家に行った。家族は「あんた、苦労するよ」と言った。「自分が苦労と思わなければ、それは苦労じゃないよ」と返した。家族は幸せになれる人と付き合いなさいね、と言った

 

海で彼に、「もうお前俺の女になれ」と言われて抱きしめられた時、ようやくかつての恋人と決着がついた。

 

最初、「体の浮気だけはしても何も言わない」って約束だったのにね。そもそも彼は、私のことを最初は遊ぶだけのつもりだったのだ。美味そうな肉、そう表現していた。付き合うのなら、俺は他の女とも体だけは遊ぶよ、と

 

けど、結局そんな様子は微塵もなく、そのまま結婚しちゃった。今じゃ自分から「他の女なんて興味がない、火々里さんほどのいい女は他に居ないし、浮気する時間や金があるならゲームしてる」と堂々と言い放ついい男になってくれました。

 

今や旦那のアナルに座薬を注入する日々。

 

あまりにもとんとん拍子に進んでいて、怖い。仕事では何度も躓いているけど、旦那との関係は良好だ。ちなみに私、今年の恋のおみくじ、大吉引いてるんですよ。プロポーズは地元の海でされたし、確かに神に感謝したくなるくらいの幸せな結婚ができたわ。

 

書いてるうちに何が言いたいのか分からなくなってきちゃったな。

 

まあ、何が言いたいかというと、多分これからも私は私らしく色々考えて抱えて迷いながらも生きていくのだと思う。けど、そこに情緒を忘れてしまったら、それはもう私ではなくなってしまう。だから、定期的にちゃんと感じたこととか、心の衝撃を忘れないようにしなくちゃって。年齢が、とか環境が、とか忙殺とか関係ない。情緒を飾り立ててどこかに刻んでやるのが、私の人生のお仕事です。